被災地を見て感じたこと☆

宮城県の被災地を「見学」してきた。
自分が感じてきたことを、文章化できる自信がないのだけれど、仲間に書くと約束してきたので、書いてみたい。


自分が尊敬している大切な仲間の一人KAIが東京都からの派遣教員として、3ヶ月間宮城県に。
旅立ちを聞いた飲み会の席で、KAIがいる間に必ず訪ねに行く!と宣言をしたものの、なかなか行動に移せず。

この週末しかないと思い、思い切って行動。



「被災地を見に行く」というと、不謹慎に聞こえると思う。
ボランティアに行くならまだしも、「見学」ということに対して抵抗があった。
自分の中で「被災地を見た」という自己満足のためなのか・・・という葛藤もあった。

でも、結果として被災地を見に行って良かったと強く思う。

ニュースで見たこと、新聞で読んだこと・・・
「知っている」けれど「わかっていなかった」
同じ場所に立つことで、被災者の話を聞くことで、泥を踏むことで、匂いを嗅ぐことで・・・
被災者の悲しみにはほど遠いけれど、「少しわかることができた」ような気がした。


どこかから流れてきたSL


小学校の窓枠がなくなり、海が見える


潰れた体育館


気仙沼の工場地帯


浮力で浮き、土台ごと引っこ抜かれたビル


土地が沈んで、水没した道路


小学校の壁に、卒業生の中学生が書いたと思われる落書き。「ガンバレ」の文字も。


今回はKAIが実際に宮城で生活しながら、感じたことを聞きながら、仲間のナオトと3人での行動。

ナオトのブログ:http://igasen.blog22.fc2.com/blog-entry-229.html
思いを帰った日の内に言葉にした力強い文章。


3人で各地区のほとんどの小学校に足を踏み入れてみた。
子どもたちの学校生活の跡。
片付けた際に、道具やランドセルが整理されて置いてあっても、子どもたちは取りに来たくないだろうな。使いたくないだろうな。

どこに非難したのか?
どんな具合に津波が見えたのか?

実際に津波がきたであろう高さの跡を見る。

想像するたびに胸が苦しくなった。
想像するたびに怖くなった。


同じ体験をしていないと、同じ境遇にいないと「わからない」コト。
でも、少し感じることができたような気がした。


宮城県の先生、あべパパが「オレは車流されたけど、家もあるし。家とか全部なくなった人の気持ちはわかろうと思ってもわからない」と言っていた。あべパパもものすごく大変な体験してるのに・・・

自分はどうなんだろう?
東京に生活している人はどのくらい「わかろう」としているんだろう?


「支援」するってどういうことなんだろう?


今回は、教員の「生きる力」が試されたという話を聞いた。
想像すること、判断すること、行動すること。
地震が来てから、津波が来るまでの40分間の校長の采配が生死を分けた。
サバイバル・スキルも必要だった。

日頃、このような事態に対して、どのような心構えの準備が必要なんだろう?


体験から学ぶこと、チャレンジな体験、心の強さ、生きる力のためにも、「アドベンチャー教育」の持つ重要性を再認識した。


地域のつながりの大切さの話も聞いた。
地震の直後、下校中の児童を地域のおじちゃん/おばちゃんや、駅員さんが学校まで非難させたり、まだ物資も何も届かない避難場所に、地域の人が、自宅の工場にある断熱材や発電機を持ってきたり、おにぎりを作って持ってきたり。
お互いに顔を知っているからこその協力だったそうだ。

それが大きな街ではなかったと。


やはりテレビの前の情報は、「情報」に過ぎず、一過性のものになってしまう。5ヶ月経った今でも、避難生活を送り、片付けも手が着かない場所もある。放映されなくなった気がする。
「他人事」として捉えている内は、なかなか継続的な支援はできないと思った。
今回、宮城県を訪れ、宮城に友達ができたことで、より「自分事」になった。
今後、自分の言葉や行動に、今回インプットされた体験からの情報が影響してくると思う。


エネルギーの問題、放射能と食べ物の問題、雇用の問題、住居の問題・・・
解決するべき問題は、まだこれから。


がんばろう、日本!!


※帰った日、次の日、その次の日と、文章を書き足しながら、でも公開できずにいたのを今日公開します。